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金相場の歴史を振り返る②:1980年~1990年代

金は古来、価値の保存手段として重宝され、利用されてきました。
しかし、その価格は経済的・政治的な要因によって変動します。 1980年代前半から1990年代後半にかけての金相場の推移は、その影響を如実に示す時期でした。この期間は、1980年代初頭に金価格が高騰し、その後の長期的な下落基調が続いたことが特徴と言えます。本記事では、経済状況や国際情勢の変化が金相場に与えた影響を時系列で解説します。

1.1980年代の金価格のピーク

1980年1月、金価格は当時の史上最高値となる1グラムあたり6,495円を記録しました。第二次オイルショックによるインフレ圧力の増加や、ソ連のアフガニスタン侵攻やイラン革命による地政学的緊張の高まりなどを受け、投資家たちが「安全資産」として金を求めたためです。
しかし、原油の増産により供給不足への懸念が解消され、原油相場が落ち着きを取り戻すにつれて、ピークを付けた金価格も急落。その後は、石油輸出国機構(OPEC)が独占的に決定していた原油価格に市場原理が導入され、OECD諸国や非OPECである発展途上国の石油開発が進み、市場環境が変化する中で供給過剰となり原油価格が下落。エネルギー価格の下落を背景とした世界的な経済成長により株式相場が上昇する一方で、投資家の金への投資意欲が減退してゆきます。

2.1990年代の金価格の長期低迷

2-1. 東西冷戦の終結:ドイツの再統一とソビエト連邦の崩壊

1989年11月、東西冷戦の象徴だったドイツのベルリンの壁が崩壊し、1990年10月には東西ドイツが再統一されました。また、1991年12月には東側の中心であったソビエト連邦が崩壊し、ロシアを含め複数の共和国に解体され、東西冷戦が終結しました。東西冷戦の終結は、国際的な地政学的リスクを大きく後退させ、「安全資産」としての金への投資ニーズは大きく低下しました。

2-2.米国の好景気とインターネット・バブル

1990年代は、米国経済が長期にわたり景気拡大を続けた時代でした。米国経済の好調による基軸通貨であるドルの強さ、インフレの鎮静化も金価格に下落圧力をかけます。特に、1990年代前期から2000年代初期にかけて、米国を中心として世界的に広がったインターネット・バブル(ITバブル)により株式市場に資金が流入し株価が大きく上昇すると、当時は著名投資家を中心に、金を「価値を生み出さない資産」と考える見方が流行していたこともあり、金よりも株式や米国債などの収益性の高い資産を選ぶ傾向が世界的に広がっていきました。

2-3.各国中央銀行やIMFによる金売却

各国中央銀行でも、利息を生まない資産である金を売却し、米国の好景気によって高金利の米ドル資産に換えて保有した方が良いとの考えが広がります。また、1989年に欧州における統一通貨を目指したユーロ導入のロードマップが示され、欧州では、外貨準備として備蓄していた金を売却し、将来導入されるユーロに「乗り換える」との考え方も優勢となり、主要4国(米国、ドイツ、イタリア、フランス)を除くほぼ全ての西欧の中央銀行が金準備の売却に踏み切りました。
1996 年には、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が、当時問題となっていた重債務に苦しむアフリカ等の発展途上国(重債務最貧国)の債務を削減し、救済する計画(重債務貧困国(HIPC)イニシアティブ)を公表し、その資金を得るためにIMFが保有する金の一部を売却する方針を示したことも、金の供給過剰懸念を増幅し、金価格への下落圧力を強めました。

2-4.アジア通貨危機

通常、経済危機で市場の不安定性が高まると、投資家は金のような安全資産に資金を移動させる傾向があります。
しかし、1997年にアジア通貨危機が発生しましたが、この時の金価格は上昇せず、むしろ下落しています。これは、
金よりも流動性が高く、高金利で高い収益性が見込まれる米国債が、資金の逃避先として選好されたためです。これは、経済の不安定性が続く中で、金が必ずしも投資家にとっての「安全資産」として機能しなかったことを意味し、投資家の金離れを招き、各国中央銀行も金を売却する動きを強めたことから、結果として金価格は1997年から1998年にかけて低迷しました。

図1:1979年から2000年にかけてのドル建て金価格推移

3.金に関するワシントン協定の成立

3-1.イギリス中央銀行による金売却

欧州各国の中央銀行による金売却は金価格へ大きな影響を与えました。 特に、イギリス中央銀行(イングランド銀行)が1999年5月7日に「イギリスの保有準備の再構成」と題して発表した金売却計画は、売却開始の2カ月前に公表され、発表から売却までの期間の短さは極めて異例であり、金市場の混乱に拍車をかけました。
また、金売却を主導した元財務大臣のゴードン・ブラウン氏は、IMFと他のG7諸国に対しても金準備を売却し、売却益を発展途上国の債務救済への資金に充てるよう要請しています。
このイギリスの金売却計画の発表から第1回目の金売却が行われるまでに、当時、市場の金価格は約10%下落し、ドル建て金価格は1トロイオンス=250ドル台、国内金の地金商小売価格は1グラム=900円台後半まで下落します。イングランド銀行は、1999年から2002年の間におよそ401トンの金準備を売却しましたが、金価格が安値を記録した要因となる金売却を主導したブラウン氏の名前から、この安値は「ブラウン氏の最安値(ブラウンズ・ボトム)」と呼ばれました。

3-2.金に関するワシントン協定の成立

イギリスの金売却計画は、当時の金の投資環境の中では一定の経済合理性を伴う政策でしたが、金価格の下落は、各国中銀の保有する金の資産価値の下落を意味するため強い批判を受けます。
このような情勢のなか、1999年9月26日、米国ワシントンにおいて欧州中央銀行(ECB)と欧州各国の中央銀行14行は、共同声明を発表し、金が今後も世界各国の重要な準備資産であることを示した上で、中央銀行の金売却に年間400トンの上限を設けることを決定します。この中央銀行金売却協定(CBGA)は、「金に関するワシントン協定」と呼ばれます。
ワシントン協定の成立は、金市場における供給過剰を抑制し、投資家の信頼を回復させる重要な要因となります。

3-3.IMFの金売却方法の修正

また、イギリスの金売却計画による金価格の急落は、当時最大の産金量を誇った南アフリカ共和国をはじめとする産金国の経済を直撃しました。金価格の下落は、産金国の収入減少に直結するためです。
IMFは当初、金を市場で売却して得た資金を、重債務最貧国の債務削減に充てる計画を立てていました。しかし、金売却による金価格の下落の影響を受ける国の多くが債務削減の対象国であったため、計画の意義自体を問われる事態となり、金の売却方法の修正を余儀なくされます。
その後、1999年12月8日、IMF理事会は金市場に影響を与えない形で必要な資金を工面するため、金の市場外取引での売却を承認しました。最終的には、ブラジルやメキシコと取引し、1,294万オンス(約402.5トン)の金を売却しています。IMFのこの動きは、ワシントン協定と共に中央銀行の金売却による金価格の下落に対する市場の不安を後退させ、その後、金相場が回復するきっかけになったと言えます。

図2:イギリスの金売却計画とドル建て金価格推移

4.まとめ

1980年に急騰した金相場でしたが、東西冷戦の終結により国際的な緊張が緩和し、安全資産としての金の需要が低下する中で、金価格も下落基調が続きます。各国中央銀行による金準備の売却は金相場に更なる下落圧力をかけ、1999年7月には金取引の自由化後の最安値近辺となる1グラム900円台まで下落しました。しかし、1999年に欧州の主要中央銀行による「ワシントン協定」が締結されたことにより、中央銀行による金売却が制限され、金価格の下落に対する不安心理が大きく後退することに繋がります。この動きは、金価格の下げ止まりを促し、2000年代に向けた金価格の回復基調となる基盤を築きました。
2000年以降、米国でのITバブルの崩壊や、米国の同時多発テロ事件などの影響から、金の価値が再評価されると共に、投資家がリスク回避のために金を選好するようになり、金価格は再び上昇することになります。次回は、その過程を解説します。

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